こだわりからの離陸(118) 2002年「宇宙の理」11月号
(「愛国心」について)


   ちょっと長い前置き

  徳間書店発行の「アミ 小さな宇宙人」という書籍での会話の中に「偶然? それどういう意味? われわれの言葉にはそれに相当することばがない」という一節があります。

 これは世の中で起きる出来事にはすべて理由があることを当たり前としているユートピア社会では、「偶然」そのものが存在しないので、当然そういう概念も言葉も存在してないということなのです。
 実はこの中に真理探究のための重大ヒントが隠されています。

 たとえば「自由とは何か」という問題を考えるときも同じです。
 世の中はすべて、「ある限定されたもの」を指し示すとき「そうでないもの」の存在が必要となります。
 ある限定されたものだけで世の中があふれている場合、そのものの存在自体を指し示す必要がなくなるのです。
 そこにある存在がすべてであり唯一なら、限定されたものも存在しないこととなり、そういう概念という制限自体がなくなってしまうからです。

 言葉は物事を限定することでその役割を果たしており、概念は言葉によってさらに具体化されたものです。
 本来、私たちが観ているもののすべては形付けられたものであり、反映であり幻想とも言えるのです。

 実在は唯一の私≠ナある宇宙創造神であり、それは愛そのものと言えるのです。
 ですがそれだけですとという認識自体がないのです。なぜならばそれがすべてだからです。それが唯一すべてという絶対の状態とはどういうことなのかを確認するために実在を分割したうえで、その周りに自分の相対として、「すべて」以外の存在である「幻想(反映)」 を作り、映し出しているとも言えるのです。

 ちょっと理屈っぽくなりましたが、
「自由」という言葉の存在にも、そこにすでに「不自由」があるという前提があります。

 つまり、もしもこの世に不自由がなかったら、世界が真の自由であふれていたのなら、自由それ自体を知ることができないということです。
 相対するものがないという状態にあるとき、自由という言葉も概念も必要なくなるのです。
 しかしそこに不自由があったから、不自由でない状態を自由と呼ぶことにしたのです。
 宇宙(創造神)的には、はじめに自由があったのですが、私たち(神の分身)的には不自由という世界からスタートしたのです。

 いまはまだ人類の誰も完全な自由というものを体験していないのです。
 私たちは不自由の経験から自由という概念をつくりだして、未経験の自由という言葉を日常的に使っているのです。私たちの世界では自由の生みの親は不自由となるのです。

 私たちの無意識が「自由とは何か」ということを考えはじめたこと自体が、不自由を経験しようとする創造の世界に足を踏み込んだと言えるのです。私たちの意識が混乱を望んだのです。

 そして実際、私たちは不自由を創り出し、不自由から経験を始めることで、真の自由の世界を計り知ろうとし、それを創り出そうとしているところなのです。

  愛と愛国心

 以前、355号(「宇宙の理」355号のこと)で「私は愛国心を否定しているわけではない」と書きましたが、しかしそれはどうも正直ではない、という(心に引っ掛かる)気持ちがあります。それは自分の本音とは言い切れないからです。

 愛を最も端的に言えば、大きく二つの要素で言い表せます。
 ひとつは、成長を促しサポートする意識で、
 もうひとつは、自分と他人を分離しない「自他一体の心」を生み出している意識です。

 その愛の観点から考えて観ますと、無差別であり無限である正しき愛をもってして、愛国心を的確に説明できないのです。
 つまり他の国≠フ存在を意識したうえでなおも特定の自国≠愛するという愛国心という心の状態を、どうにも明確に自他一体の愛の心の下で説明することができないということです。

 ここで確認しておきたいことは、
 「愛は唯一絶対の実在であり愛こそがすべて」ということからは、愛という心の状態がもしも普通の日常的なものとなっていたのなら、(「自由」がそうであるように)この世に愛だけが実在していたのなら、とりたてて愛という言葉自体必要としないのです。
 私と私を取り巻く命を分け隔てなく愛する心こそが唯一絶対の愛であるからです。

 という言葉が存在していること自体、*愛でない心の状態 があるということの裏返しなのです。

 実は愛国心自体が、*それにあたっているのです。つまり、
 「愛する国」があるのなら「愛していない国」も存在していることになります。

 ちょっと思考が深くなりましたので、ここで母性愛と愛国心を比較してみます。
 母性愛は絶対意識の愛(無制限の意識)と、母の本能(特定の無意識)との合体ですが、愛国心とは、愛と何の合体でしょうか。

 母性愛という無意識(神が直接インプットした遺伝する本能と遺伝しない愛との合体)は、愛本来の意味をそのまま生かすことができるのです。つまり母性愛とは、愛(神)が根底にあって母性(母性という本能は神のコントロール下にある)をサポートするように創られているのですが、愛国心は「一定の国」「限定された国」を愛するというエゴ(虚構の愛)の前提が先に立っているのです。
 エゴが先立つもの… すべての混乱はここから始まっています。これは本来の愛をゆがめかねないのです。そこにはどうしても愛との反目が生じるのです。愛でないものを愛と呼ぶ、そこに既にボタンの掛け違えがあるのです。
 そもそも愛とは何かの理解がされずに愛国心が語られているのです。それが現代の愛国心論議の現状なのです。

 母性愛や父性愛などの様々な愛は、愛が無意識の本能と交わることで現われる愛の多面性ですが、未熟な意識下の想念と合体している愛国心はそうではないのです。

 「愛する国」「愛国心」をことさら強調するとき、それは自他一体ではなく、国と国との分離を強調する落とし穴に落ちるのです。人であれ、会社であれ、民族であれ、国であれ、地球であれ、生命の組織というものは全体のなかの役割にしか過ぎないのです。
 厳密な言い方になりますが、国という分離意識が入ったとき、それはすでに愛ではないのです。

 イエスは「自分を愛するように他人を愛しなさい」と言いましたが、自分の国を愛するのと同じように世界の国々を愛し、そこに住むすべての人々を愛するという無差別の意識に変わらなければ、厳しいようですが本来の愛とは呼べないはずなのです

 私たちが日本しか知らなかったときは、愛国心は立派な愛と言えても、他の国と交わり出したら意識は人類愛・地球愛に変換されねばなりません。
 そしてやがて、ユートピア到来のときは他の星界人の人々と触れ合うのですから、星々を含めた宇宙愛へとさらに愛を成長させなければ、新しい地球への掛け橋から振り落とされるでしょう。

 愛国心であれ、ナショナリズムであれ、パトリオティズムであれ、「〜より〜をより愛している」という上下の分離≠ノはすべて、そこにエゴがあるということを認識しなければなりません。
 もちろん、地球上どこを探してもそんな人間はまだいないかも知れませんが、愛国心を現代の解釈の中で固定してしまっては、必ず間違いが起きるということです。
 そして現実に起きているし、これからも起きるでしょう。

 愛国心の領域をより大きな愛への成長へのひとつの段階としてとらえ、自分の心を成長させたいと思います。

   反面教師としての韓国と中国

 韓国や北朝鮮の民族意識はとても強いようです。
 そしてそれこそが愛国心だと間違った考えを植え付けられています。
 「愛国無罪」などというとんでもない概念が成り立つのも、エゴを愛の名の下に欺瞞に附しているからです。
 愛の理解の基本が全くされていないのです。

 韓国に住む作家の金完燮氏は著書「親日派のための弁明」(草思社)の中でこう言います。

「韓国の子供たちは毎日国旗を見ながら胸に手をあてて、『祖国と民族の限りない栄光のため、身も心も捧げて忠誠を尽くすことを固く誓います』と、ぞっとするような全体主義の誓約をしなければならない。このような全体主義的行為は、自分が属している集団(国家、地域、組織)の利益のためなら、他の集団の利益は犠牲にしてもやむをえないという考えを植えつけることであり、危機が迫ったときにはファシズムの狂気を吹きこむことができるという意味で、実に危険なものである。」
「祖国とか民族というスローガンは、支配者がみずからの利益に奉仕させるために人々を欺く嘘であることが多い」



 皮肉っぽく言えば、国をまとめるという意味では、韓国の「反日思想」も大いに役立っているのです。

日本の平和を願う心が正真正銘の愛であるためには、
必ずや世界平和のいざないとなるこの国の役割を重んじ、この国が真の心の平和と豊かさを獲得することによりその役割を成就し、世界のすべての国々が日本を手本とし、幸福をもたらさんことを願う純粋なる愛の発露となるものでなくてはならない。
それが神の、そして本当のあなたの、意思である。

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